這う掌/潮騒
それは、あまりに淫らで。
レンズから逸らした目に、激しく降り注ぐプリズムが突き刺さって、黒い点が散った。
そう、眩し過ぎるのは、この南の島の陽光だ。
滴って、土を染めているのは、汗だ。
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「グラシアス!」
真珠取りの少年は、にこにこと漕ぎ戻って行った。
ビーチへ続く車道はきれいに整備してあるが、
島の真中から切り立っている山肌には、道らしい道はない。
俺はシュトックで茨や蔦を払いながら、険しい斜面を登り始めた。
草いきれと暑さにうんざりしだした頃、漸く頭の上に空が開けた。
突き出した崖の先端を叩いてみる。
うん、地盤はしっかりしてる。
おあつらえ向きに、まばらな潅木が目隠しをしてくれそうだ。
防水シートを敷いて匍匐い、望遠レンズで、淡いピンク色の砂浜を舐めてみた。
うねうねと降りている舗装道路の行き止まりに、
竹を組み、蔓草を這わせた日除けが設けてある。
中に停めてある真っ赤な車のフロントグリルが覗いていた。
白地に赤の十字と、緑のドラゴンのマーク。
間違いない。昨日、専用フェリーに乗り込んだあの車。
砂交じりの風を遮るためか、トップを降ろしてあった。
砂浜には派手なグリーンと白のビーチパラソルが立って、
揃いのデッキチェアの間にはタオルや水の瓶がある。
だが、人の姿はない。
双眼鏡を出して海の方を見る。
どのみちこの距離では、水の中に居る相手は波頭の反射でまともに撮れない。
俺の居るほぼ真下の岩場にレンズを動かす。
水は澄んでいて、底までよく見える。
(...あ!)
黒髪が、視界の端をよぎった。
弾みをつけて平たい岩に上り、濡れた髪を払って、何気なくこちらを見上げる。
危うく目が合いかけて、慌ててレンズを伏せた。
つねに他人の目に晒されるのに慣れた相手とはいえ、
ここはホテルの客だけのプライヴェート・ビーチなのだ。
僅かに身を退き、細いスコープに替えて様子を伺う。
足元を見ながら−浅瀬とはいえ岩場だ−砂浜の方へゆっくり向かっている。
フォーカスをあわせ、立て続けにシャッターを切った。
雑な印刷のスポーツ紙やゴシップ雑誌に売るには勿体無い出来なのがもう判る。
絵になる、なんて一言では括れない、あの人の魅力は、
あれだけの男に、溢れるばかりの愛を注がれていながら、
愛されることに狎れようとしない心に研がれて(とがれて)いるんだ。
あの人の輝きを目にする度、未だに、柔らかな棘のような痛みは胸を衝く。
けれど、俺がこれだけ焦がれている男、
俺のカメラが生涯の獲物に決めた男が魂を奪われている相手が、
愛や人気に胡坐を掻いて緩んでいたら、
それはそれで苦々しいんだから、ファン心理ってのも、複雑。
あの人はガレージの脇にあるオープンシャワーを使い始めた。
ここまで離れると表情までは捉えられないが、
画質を最高に上げれば、誰かは判る程度の絵にはなる。
銀鱗のようにきらめく飛沫を効果的に捉えようと夢中になっていて、
浜を走ってくる精悍な姿がファインダーに入るまで、気づかなかった。
ああもう、追っ駆け屋失格だっつうの。
激しいくちづけに足をもつれさせながら、
それでもあの人は、薄い水着を剥ごうとする逞しい手に抗っている。
それすら楽しむように、クレバスに忍び込む指。
猛々しい盛り上がりが押し付けられ、仰け反った喉に、唇が押し当てられた。
首に縋った腕が、滑り落ちて、かろうじて、指差した先は。
激しく揺れるフロントウィンドウが、徐々に曇っていく。
リズミカルに上下する逞しい背中が霞んで、ただの影になる。
もう諦めて、出てくる事後写真の線で…と、肩の力を抜いた瞬間。
ひたりと、這った。
生々しい肉の色を浮かべた...掌が。
ガラスの曇りを握り締め、
鮮やかな弧を描いて、
...そのあでやかな軟体動物は、力尽きて消えていく。
*************
ファインダーが、自分の汗で曇っていた。
口が渇き切っていた。
ぬるいエヴィアンを貪り飲んだ。
ありえない。
俺だって、そこそこ名が出てきたパパラッチだ。
ホワイトラインと乱交で乱れきった若手女優だの、
ストリートボーイに突っ込まれてよがるカリスマミュージシャンだの、
どぎつい濡れ場は散々見てる。
だのに、そんなシーンが、載ったゴシップ誌のページ並に薄っぺらくしか思えない。
それ自体生き物のように、濡れたガラスを滑っていった、
あの掌だけが。
あの人たちだけが知っている、底知れぬ悦楽を窺わせて。
全てを吹っ飛ばしてくれやがった。
*************
褐色の姿が、のんびりと出てくる。
素っ裸だ。
そりゃ、...隠す必要なんか無いですよね。
ペリエの栓を捻って半分飲み干し、車内に残りを渡して、シャワーにかかる。
これは撮らなきゃ。
背中には赤い掻き傷。
首を流していた片腕がゆっくりと上がり、
... 握った手の、中指が立っている。
ま、さ、か...?
肩越しに振り返った顔は、表情までは見えない。
けれど俺を見ている、勁い視線は間違えようが無い。
ミイラ取りがミイラ、じゃないけど、
追う俺たちも、追われる彼らの視線には同じ位、敏感になってる。
「ったく、見せつけただけですか」
俺はカメラのメモリを抜いて立ち上がり、
はっきり見えるように腕を振って、海に投げた。
ダミーのメモリを用意しといて、捨てた振りは基本テクニックだけれど、
ことこの人に対してだけは、俺なりの仁義がある。
頭がぐいっと振られる。
はいはい、あの人が気づく前に消えろ、ですね。
*************
「良いハントがありましたか?」
「ココにね」
頭を指して見せると、少年は不思議そうに、でも皓い歯を光らせて笑った。
アディオス、アミーゴ。
Fin.
チキ
あとがき:この「這う掌」のシーンは元ネタがあります。
とあるDVDで見たこのシーンをどこかで使ってみたかったので...